他人の優しさを真に理解するには、同じだけ深い優しさを持っていないと難しいという話

〈魚を与えるか釣り方を教えるか〉

って話があるじゃないですか。


魚をあげても食べたら終わっちゃう。

釣りができればその後ずっと自分で魚がとれる。

じゃあ釣りを教えるほうが親切だよね、みたいな。


でも人の世ってそんな単純にはいかないもんです。

魚も時間も有限だし、釣りにも個人の適性があります。

「一度魚あげたら頼りにされて後で応えられないかも」

「釣り教えたいけど今は本当に時間がない」

「どう見てもこの人は釣りが出来るようにならない」


自分と相手の状況によって、

選択肢とさじ加減は無限。

どんなに助けたいと思っていても、

そう簡単にはいかないことが多々あります。


魚をあげつつ時間をかけて釣りを教え、

できるようになったら褒めて共に喜び、

釣りが無理だったら今度は一緒に畑を耕してみたり。。


助ける側だって、

そんな風に悩みはつきないものなんですね。


その葛藤を知らずに

「魚をケチるあの人は冷たい」

「私は釣りができるのに畑に行けと言われたひどい」

「絶対に腹黒い、なにか下心がある」

という結末にいっちゃったりする。


相手は一生懸命考えてくれてたんだと思いますけどね。。

なかなか通じ合わない。


優しさって、

相手が理解して受け取ってくれてはじめて成立しますよね。

同じ深さの想像力がないと、気付けない。

まず理解してもらうことが必要。


じゃあなぜ相手が理解しようとしてくれるかというと、

その人への信頼があるから。

「この人はきっと自分のためを想って動いてくれている」

という安心感があるから、最後まで受け取りきれるんです。


ということで、

人の優しさをちゃんと受け取りたいと願うならば、

その人への信頼が必要。


誰かを助けたいと願うならば、

日ごろから信頼される振る舞いが必要。


あるいは、良かれと思って動いたのに、

恩を仇で返されたと嘆きたくなることもあると思います。

ときに、想いが伝わるには時間差があることも。

それも含めて飲み込むことも優しさかもしれませんね。


でもその思いやりは小さく歴史に刻まれています。



信頼するのもされるのも、

一朝一夕では叶わないものかもしれないですけどね。

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